file1 マリーの涙 

横浜の本牧には駅がない。30分歩くかバスか。夜中に遊ぶなら飲んでも自家用車。
そもそも「本牧」はひとつの町名ではない。影の横浜地域をザックリまとめた通称だ。
不思議な街「ホンモク」には米軍兵士が暮らす「ハウス」があった。
一般のレコード屋ではゲットしにくいジャズが流れていた。

そんな本牧の昔の話。
「みなとみらい線」も携帯電話も「歩行禁煙ダメ法」もない時代。
その頃の少年カオルはカネを持っていた。
そこそこキケンな「非合法の商売」を手伝っていたから。
たまに悪友と本牧の小さなバーにいった。
L字型のカウンターと4人掛けのボックス席がふたつ。そしてジュークボックス。
よく酔っぱらったネイビーにソウルをおごってもらったな。
店の名前は小学生でも読めるアルファベットが5つ並んでる店。

金曜日の夜。暗黙の了解でカウンターのすみっこにあるその席はマリーのために空けられていた。
そう。そのヒトはマリーと呼ばれていた。
彼女はいつもヒトリで店にやってくる。バンドマンも元バンドマンもニセ芸術家も
トッポい不良たちもマリーが来ると彼女を意識してかあまりはしゃがなかった。
「マリーはギャングのボスの愛人」そんなウワサも影響してたのかな。

マリーは夏でも秋でも長いさらっとしたスカートをはいていた。
髪の毛は腰のあたりまである長くて少し茶色い髪。
ライムが飾られたジン・ロックを静かにゆっくり飲んでいた。
誰とも話さなかったし誰も話しかけなかった。
たまに「新参者」がマリーを口説こうとすると黒人の海軍兵に外へ連れ出されることになる。
自主的なボランティアのボディーガード黒いポパイはその任務に誇りを持っているみたいだった。

マリーはどんな曲でもよかったらしくソウルやロックに合わせて
カウンターをまっ赤な長い爪でコツコツとリズムをとっていた。
マリーはロングピースを吸っていた。少年カオルはそれをマネして吸い始めた。
女の子でピースを吸っている人をカオルは今のところマリーしか知らない。
マリーの吸い殻はほぼ同じ長さで灰皿の中に「暖炉の薪」のように重ねられていた。

まっ赤な口紅つきで。

少年カオルがマリーと個人的に接触したのは1度だけ。
何の特徴もない天気の金曜日の夜。
切れかけた蛍光灯がチラチカする廊下の突き当たりのトイレ。
小さな店には専用トイレがないからその共同トイレで用を足す。
「用」はおしっこだけじゃない。
ジャンキーの用・闇の取引・淫らなキスも「用」だ。

少年カオルが用を済ませてトイレから出ると廊下の壁にもたれたマリーがいた。
男女用もない頼りない鍵付き個室が1つだけのトイレだからマリーは順番待ちだと思った。
だからすれちがう時ににオレは言った。「お先でした」
そしてマリーの前を通り過ぎたときいきなりシャツの袖を強く引っ張られた。

「え?」

ハイヒールのせいもあったのだろうけれどマリーはカオルよりずっと背が高かった。
少し見上げるとマリーは泣いていた。化粧が黒く流れるほど泣いていた。
オレの肩にアゴを乗せた。何も訊けなかった。だいたいどんな言葉をかければいいんだ?
マリーもなにも喋らずただ泣いていた。ひたすら泣いていた。
オレは迷ったけどチカラを入れずにそっと背中に手を回した。
思っていたよりマリーは華奢で「ガラス製の鳥カゴ」みたいに細かった。
とても素敵な異国の王女みたいな強く気高く甘い甘い匂いがした。

数分後(数十秒後?)マリーはオレのシャツで涙を拭きながら小さく「ありがと」と言った。
シャツについた化粧のシミは名誉の勲章のようでポパイはジェラしいだろうなと思った。
耳元で初めて聞いたマリーの声は風邪をひいたジャニス・ジョップリンみたいだった。
マリーは廊下をツカツカ歩いて行った。少し遅れて店に戻るとマリーの姿はなかった。

それっきり。

メールアドレスも携帯番号の交換もない時代。逢いたいければ店で待つしかない。
マスターは「マリーはもう来ないと思うよ」とカウンターを拭きながら無表情につぶやいた。
それでもオレはもしかしたら逢えるかもと金曜日に店に通うようになった。
だけどマリーは来ない。陽気な黒いポパイはドアが開くたびに期待してガッカリ。
小さな店はシンボルの旗を奪われた小さな軍隊のようだった。

ある夜。マスターが嬉しそうに言った。
「マリーが来たんだよ。1杯飲んですぐ帰ったけどね。
そんでこれを長髪の坊やが来たら渡してって預けて行ったよ。なんかあったのか?」
薄い黄色いシャツだった。ロングピースみたいな淡い黄色のシャツ。

彼女の消息について色々ウワサになったけど真相は誰も知らない。
最終的に「千葉の方で郵便局員と結婚して暮らしているらしい」が定説になった。

トイレのラクガキ・金曜日の夜・コカコーラのベンチシート。
ジュークボックス・冗談のヘタクソなマスター・黒いポパイ。
そんなこんなをカオルは大好きだった。もちろんマリーを特別に。

その一角はバブル崩壊ともに駐車場になりそれもなくなり大型量販店になった。
「マリーが泣いたこと」はずっと誰にも話さなかった。守るべき秘密だと思ったから。
いや。「話せなかった」のかな。なにかが致命的に壊れてしまうような気がして。

時は流れた。
黄色いシャツはいつの間にかなくしてしまった。
不意に消えたマリーのように。

〜あばずれマリー すました顔でカタギのヤツと暮らしているぜ それなりにしあわせそうだ〜

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